2012年8月25日土曜日

サイファの物語 (2)



「グルカ、何のつもりだ」

 震える子供を背に隠した俺に向かってボウが言う。その目には疑念が浮かんでいる。

「サーセン、俺この仕事辞めます」

「考え直せ。今まで順調にやってきただろうが」

 順調だったのだろうか。今にして思えば、俺はギリギリのところを歩いてきていた。
 全然問題ない事なかった。常に矛盾する心のありように目を背けながら生きてきただけだ。俺にはそれしかなかったから。

 ボウが、そのあだ名の由来であるボウガンをこちらに向けながら、諭すように語りかけてくる。その矢がいつ飛び出してきても背後の子供に当たる事はないよう、慎重に位置取りする。

「……子供は殺せない」

「ふざけんな。今まで散々殺してきた奴が何言ってやがる。子供はダメで女はいいのか。老人は? お前の中の基準は何だ」

「理屈じゃないんすよ」

 そう、ボウが言う事は正しい。今まで散々殺してきた俺が子供を助けて何になる?
 自問しなかったわけではない。ただ、その考えもまとまらないほど、俺はショックを受けていた。殺しにかかるこの手が止まる事なんて今までなかったのに、止まってしまった。
 相手が子供だったというだけで。
 その事実がショックだった。もう暗殺稼業は続けられない。

 自分はどうなってもいいが、俺はこの子供は殺せないし、死なせてはいけないと思った。恐らく、俺は暗殺者としては壊れてしまったんだろう。

「チッ、馬鹿が。もういい。ここで死ね」

 ボウガンから矢が飛び出す。避けるわけにはいかない。後ろの子供を守るために、最大限の集中をもってして、グルカナイフで矢を弾く。二射目は……。
 二射目は放たれなかった。というより、ボウの姿が目の前にない。二度三度と目を泳がした後に気づいた。ボウは俺の真上に、天井に張り付いている。
 だが気づくのが一瞬遅かった。

 真上から放たれた矢は子供の肩口から心臓目掛けて深々と突き刺さっていた。

 膝から崩れ落ちるように倒れる子供。それを呆然と見ていると、ボウが天井から降りてきて、俺に声をかけた。

「なんてな」

 ボウガンを肩に担いでニッと笑顔を作るボウ。続けて口を開く。

「落ち着けグルカ。お前を殺しはしない。ハイドストーク様の秘蔵っ子だしな」

 子供の死体から目が離せない。

「一時の気の迷いだ。なに、俺も最初に子供を殺った時は動揺したよ。じきに慣れる」

 さぁ、仕事は終わった。飲みに行こう。と肩に置かれたボウの手を払って、俺は逃げ出した。
 考えはまとまらない。混乱と恐慌の中で一つだけ確かだったのは、組織を抜けるしかないという思いだけだった。

──

 今まで何人の物語を終わらせてきたんだろう。
 数えた事がなかった。他人の物語になんて興味がなかった。いや、自分の物語にさえ。

 ごろりと寝返りを打って夜空を見つめながら考えた。
 なぜ、相手が子供だったというだけで急に殺せなくなったのだろうか。ボウの言う通り、大人を殺すのは全然平気だったのに。
 俺はあの子供を見た時、一体何を思った……?

 あの時の気持ちを思い出そうと、目を瞑る。

 そうだ。俺はあの時、こう思った。

 "この子の物語はこれで終わりか。"

 物語にもならない。本にして数ページで、この子の物語は終わりだ。

 終わらせるのは俺だ。そうして俺はまた俺の物語を紡いでいく。

 何の価値もない物語を。

 なるほど。
 それが嫌だったのか。
 実に簡単な話だった。

 子供を一人救って、どうするつもりだったのだろう。
 俺のこの手は、もう取り返しがつかない程に、こんなに血にまみれているのに。

 震える掌には血がべっとりとついていた。出血が多い。もう長くないと自分でわかる。
 どうせ死ぬなら抵抗しないで一人で死ねば良かったな、とボウに申し訳ない気持ちになった。
 横を見るとボウは無表情のまま俺を見ていた。首から下はない。
 追手がまさかボウだとは思わなかった。それに、もう一人いるなんて。

 再び空を仰ぎ見た時、師匠の仮面が視界に入った。

「サイファ……。お前には失望した」

 組織で唯一、俺を名前で呼んでくれる人。俺の名付け親。育ての親でもある。

 仮面越しのくぐもった声が、そろそろ機能を失う耳になんとか届いた。

「師匠、サーセンした。俺、やっぱ、暗殺、向いてなかったっす」

 口を開く度に血が溢れてくる。

「もういい。今楽にしてやる」

 カタールが月の光を浴びて青白く光る。その光がすぅっと弧を描いて、まるで三日月みたいで綺麗だ。

 俺の物語はここで終わった。

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